身体に流れ込んだ10年――『ダンス&ラップ ありか』

2026年9月19日(土)14:00 ・愛知県芸術劇場 小ホール

アフタートークゲスト
【9/19(土)14:00公演 終演後】 ドミニク・チェン 氏(発酵メディア研究者)

出演・演出・振付:島地保武(愛知県芸術劇場ダンスアーティスト)
出演・演出・音楽:環ROY


『ダンス&ラップ ありか』を久しぶりに観た。初演から約10年が経つ。

当時の記憶をたどると、まず思い出すのは環ROYと島地保武、二人の身体の鮮やかな違いだ。島地は、密林に生きる野生の獣を思わせるほど、身体の量感と強さが印象的だった。一方、ラッパーの環には、華奢な青年というイメージがある。二人のあいだには、ジャンルの違いだけではない、身体そのものの隔たりがあった。

今回、目の前に現れた二人は、当然ながら10年前と同じではない。

とりわけ驚いたのは環だった。ラッパーである彼を、私は今回、声や言葉以上に身体の動きや質感を見ていたように思う。私は以前から、環の表現に「虚」のようなものを感じてきた。ただし、ここでいう虚は「空っぽ」という意味ではない。10年前に感じたそれは、闘争を少し遠巻きに眺めるような、どこか「冷ややかな虚」だったように思う。

今回、その虚に10年という時間が流れ込むことにより、温度が変わったと感じた。

以前の環の動きに感じていたのが、細く研ぎ澄まされた刀の切っ先だとすれば、今回はもっと太く、重い刀だった。ところが、重くなったから鈍くなったのではない。繰り出される速度も、空間に描かれる軌跡も、むしろ以前より鋭い。質量を増した刀が、さらに速い速度で振り下ろされる。その一撃には、以前にはなかった厚みと破壊力、そして鬼気さえ感じた。

なぜ、同じ「虚」がこれほど違って見えたのだろう。

10年前の私は、そこに闘争を遠巻きに眺める冷ややかさを見ていた。しかし今回感じたのは、そこから一度、時間のなかへ身体ごと入ってしまった者の持つ独特な重量感のようなものだった。個人の葛藤や闘争なら、そこから降りるという選択肢があるかもしれない。けれど、自分が生きる時代そのものから降りることはできない。怒りを持たざるを得ない出来事が繰り返され、そのたびにまた怒りを立ち上げなければならない。その途方もなさを、私は環の「虚」に重ねて見ていたのかもしれない。

もちろん、これは環自身の内面を推し量っているのではない。10年前とは違う時代を生き、私自身もまた10年の時間を経た現在、その表現が私にそう届いたということだ。変わったのは環なのか。私なのか。あるいは私たちを取り巻く時間なのか。それを切り分けることはできない。ただ、時間によって「虚」が薄まったのではないことだけは確かだった。むしろ10年という時間が流れ込むことで、私にはその虚が以前より重く、強く感じられた。

一方、島地の身体には、環とは別方向の変化を感じた。

今回とりわけ引き込まれたのが、中盤に挿しこまれる白鳥を模した踊りの場面だ。かつて野生の獣を思わせるほどの量感と強さを感じさせた身体から、柔らかさやしなやかさ、そして中性的な美しさが立ち上がる。ここまで考えたとき、不思議なことに気づく。二人は10年間、同じ方向へ変化してきたのではない。それぞれが別々の方向へ進んだ結果、かつて相手の側に強く見えていたものへ、少しずつ近づいているように見えるのだ。

かつて量感と強さを印象づけた島地には、柔らかさと中性的な美しさが現れる。一方、華奢で、どこか闘争を遠巻きに眺めるように見えた環には、厚みと重さ、そして破壊力が宿る。もちろん、二人が入れ替わったわけではない。それぞれがそれぞれのまま10年を生きた。その結果、かつて相手に強く見えていた身体性が、もう一方の身体にも立ち現れている。私はそこに、時間による身体の「置換」のようなものを感じた。

そして今回の『ありか』は、別々の方向へ進んできた二人の軌道が、いま再び交差している「現在点」なのではないかと思った。

そのことをもっとも鮮やかに感じたのが、ラストシーンだった。環から次々と、縦横無尽にイマジネーションが繰り出される。そのなかに島地が身を任せ、踊っていく・・・。島地はアフタートークで、三角や丸といった形から身体を動かし、環のイメージからジャンプしてまた別の形へ向かうこと、身体の連想とジャンプ、そして自分の「癖」を破ろうとしていることを語った。だからあのラストで島地は、環の言葉に従っていたのではないのだろう。環のイマジネーションに身体を預け、そこからまた自分自身の身体へと跳躍していく。

初演時には「わかりあえない二人がどう関わりあえるか」がひとつのテーマだったという。それが34回目の上演となった現在、二人は「わかりあえている」と語る。わかりあえなかった二人が、時間を経て、相手のイマジネーションに身を預けられるところまで来た。しかし、それを「完成」と呼ぶのは少し違う気がする。二人は、自分たちでつくった作品なのに、いまでは誰かがつくったもののように感じる、とも話していた。

アフタートークでドミニク・チェンが能の「型」に触れた。その言葉から私は、10年という時間と上演の反復そのものが、『ありか』にひとつの「型」をつくったのではないかと考えた。能では、すでに存在する型を演者が引き受け、その定められた型のなかから、演者の身体や時間、その人らしさが滲み出してくる。『ありか』では、少し逆のことが起きているのかもしれない。

もともとは環と島地という二人から生まれた作品が、反復によって二人自身から少しずつ離れ、「型」のようなものになっていく。そして10年を経て変化した現在の二人が、かつて自分たちがつくったその型のなかへ、あらためて身体を入れる。型があるから、変わった身体が見える。同じ場所に現在の身体を置くことで、環の重くなった「虚」も、島地の身体に現れた柔らかさも、そして二人のあいだに私が感じた「置換」も浮かび上がる。

変わらずに残るものが、変わってしまったものを見せる。

今回の再演とは、過去の身体を再現することではなく、その差異によって、ふだん目にすることのできない10年という「時間」そのものを、身体として目撃することだったのかもしれない。そして、その時間のなかを別々に進んできた二人の軌道が、いま交差している。その現在点に、34回目の『ありか』があった。

■愛知県芸術劇場製作 10周年記念凱旋公演<br>ダンス&ラップ『ありか』 | 自主事業 | 愛知県芸術劇場

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