2026年7月11日(土)・京都・冬青庵能舞台
総監督/演出/振付・即興:望月紅華
音楽:タツ青木
「ビジョンは世界規模、制作はインディペンデント」――望月紅華による『今来個ん/KonKoKon』を観て、作品とともにまず惹かれたのは、その創作の在り方だった。
2026年7月11日、会場となった京都・冬青庵能舞台は、観客と演者との距離が近く、身体のわずかな震えや呼吸まで受け止めることのできる親密な空間である。そこで望月は、シカゴを拠点に活動するタツ青木らとの即興音楽とともに、自身の身体表現を展開した。大劇場での上演が評価の指標として語られやすい日本にあって、小さな場で実験的な創作を行いながら、それを海外のアーティストとの協働へ接続していく。その姿勢は、作品の規模と芸術的な射程の広さは必ずしも一致しないことをあらためて考えさせる。
世界初演『狐の嫁入り』で、望月は艶やかな打掛をまとい、背を丸め、すり足で橋掛かりからゆっくりと現れた。人間とも獣ともつかないものが、静かにこちら側へ近づいてくる。正面で髪の束をそっと握り、やがて「ごそり」と抜き取って高笑いする。その瞬間、能舞台には異界の気配が鮮やかに立ち上がった。
とりわけ印象に残ったのは、瞼の痙攣にも似た微細な動きである。身体全体を大きく動かさずとも、顔の筋肉や視線、呼吸の変化によって、そこに別の存在が現れる。望月が「三位一体身体法」と名づける身体表現は、能、舞踏、コンテンポラリーダンスを横断する探究である。望月自身は、東洋舞踊に見られる「畳む」「圧縮する」「内側へ向かう」身体と、ヨーロッパ現代舞踊に見られる「伸びる」「開く」「外側へ拡張する」身体を統合し、新たな身体言語を生み出すことをその目的としているという。
その方法論の独自性については、理論そのものより、まず舞台上の身体から考えたい。『狐の嫁入り』で説得力を持っていたのは、まさにその細部だった。背中の丸まり、すり足、瞼、視線、髪に触れる指。望月の身体は、何かを説明するより先に、日常の身体からわずかにずれ続ける。その小さなずれの蓄積が、人間であったものを人ならざるものへと近づけていく。
続く鷹匠三部作『月下美人』『影法師』『鷹匠』では、変容はさらに大きな時間のなかで試みられる。
特徴的なのは、団子状に連なるウィッグと、幾重にも重ねられた鮮やかな衣装である。髪は女性性を想起させる身体の一部でありながら、煙管にも見立てられ、その都度異なる意味を帯びていく。
一方、衣装については、舞台を観ながら少なからず戸惑いも覚えた。鮮やかなタイシルクを思わせる衣装が何枚も重ねられ、それを次々と脱いでいく。後に望月から、『月下美人』は一夜だけ咲く花になぞらえた高貴な姫であり、重ねた衣装は十二単を意識したもの、『影法師』は江戸時代の娼婦、『鷹匠』は性別や年齢を超えた、死を目前にする老いた男性であると聞いた。つまり三部作は、異なる生を渡りながら、最後には何も持たず死へ向かう身体へと至る構成だったのである。
その説明を知れば、衣装を一枚ずつ脱いでいくことにも意味が見えてくる。しかし、初見の舞台からその変容を十分に受け取れたかといえば、そうではなかった。似た質感と鮮やかさをもつ衣装が重ねられているため、脱ぐという行為そのものが本来持ちうる視覚的な驚きや、ひとつの生から別の生へ移る転換の強度が弱まっていたように思う。
最後の『鷹匠』で鮮やかな衣装を脱ぎ、黒いタンクトップ姿となった望月からは、それまでまとっていた女性性や装飾が削ぎ落とされ、「あの世には何も持っていけない」という作品の主題へ向かう意図を感じることができた。また、鍛えられた筋肉を露わにした身体には、それまでとは異なる男性的な強さも現れる。
しかし同時に、そこに「老い」や「枯れ」を見ることは難しかった。
舞台に現れているのは、長年踊り続けてきたダンサーの鍛えられた身体である。その身体から性別を越境することはできても、鷹を操る力さえ失い、杖を手に死へ近づいていく老人の身体に蓄積された時間までは、十分に立ち上がってこない。若く強い身体から、衰えや枯れをどのように生み出すのか。これは、望月の身体表現がさらに深まるための興味深い課題ではないだろうか。
能を自身の身体探究の一つの源流とする望月だからこそ、私はその射程が「老い」にまで及ぶところを見てみたい。異形の存在になることと、老いることは同じではない。筋肉の強さを覆い隠すのではなく、重心、関節、呼吸、速度、視線といった身体そのものによって、時間を生きた身体を立ち上げることができたとき、「三位一体身体法」はさらに豊かな身体言語へと広がるのではないか。
音楽を担ったタツ青木の存在も、この公演では重要だった。太鼓や弦楽器による即興演奏は、場面を明確に区切るというより、望月の身体の気配に寄り添いながら連続する時間をつくっていた。三部作それぞれの境界が必ずしも明確に分節されなかったことも含め、音と身体が互いの時間を探りながら進むこと自体が、この共同制作の特徴だったように思う。
一方、『狐の嫁入り』には、異界への扉が開いたまさにそのところで、作品が短く閉じてしまった印象も残る。橋掛かりから現れ、髪を抜き取って笑うまでにつくられた世界が魅力的だっただけに、その怪しさのなかにもう少し長く身を浸していたかった。身体の微細な変化や「間」が観客の内部へ浸透していく時間を、さらに許してもよいのではないか。
考えてみれば、『狐の嫁入り』と『鷹匠』に感じた課題は、別々のものではないのかもしれない。
望月には、身体の位相を一瞬で変え、観客の視線を引き寄せる力がある。『狐の嫁入り』で髪を抜いた瞬間も、『鷹匠』で最後の衣装を脱いだ瞬間も、身体がそれまでとは異なる存在へ移ろうとする。しかし、その変容を一瞬の鮮烈さにとどめず、作品の時間としてどこまで深め、持続させることができるのか。衣装や小道具を含めた演出が、身体そのものとどこまで同じ強度を持つことができるのか。そこにはまだ探究の余地がある。
伝統的な身体文化を現代舞踊へ取り入れること自体は珍しくない。重要なのは、それを「日本的」な意匠として借りるのではなく、自身の身体のなかでどこまで組み替え、新たな表現言語として立ち上げられるかである。
望月の試みは、まだ完成された体系というより、舞台の上で検証され続けている過程にあるように私には見える。しかし、だからこそ興味深い。能、舞踏、コンテンポラリーダンスという異なる身体文化を一人の身体に通し、そこから何が生まれるのか。その実験が京都の小さな能舞台からシカゴへ渡り、異なる文化圏の音楽家や観客との出会いによってさらに変容していく。
「三位一体身体法」が、望月紅華という一人の舞踊家の身体にとどまるのか。それとも他者へと手渡しうる身体言語になっていくのか。
その行方を、もう少し見続けてみたい。

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