トリコ・Aプロデュース『豊満ブラウン管』review

カテゴリ:演劇|投稿日:2007年5月12日
【出典:SSブログ】

<見たことのないファンタジー>

 作品をどうとらえるか、それはとても個人的なことだ。見る人が自分の内にある記憶や経験や、さまざまなものを通して世界を“こうだ!”と思い定めること・・・それが鑑賞行為なのだと私は思う。

 トリコ・Aプロデュースによる『豊満ブラウン管』が上演されている(5月11日~13日まで)。彼らは京都のカンパニーであるが、今回は恒例となった愛知県芸術劇場の演劇フェスティバルに参加している。

 会場に入って、まず観客は驚かされる。中央に一段高くなった舞台。四方には段差があり、客席がこの舞台を360度グルリと囲む。この程度であれば、最近ではめずらしくない構造かも知れないが、さらにその客席は、幾何学模様の梁のある窓枠のようなフレームによって取り囲まれている。
…不思議な居心地のする空間。劇場奥の壁は白い布で覆われ(中央には大きな穴が開いていて、そこに映像が流れ)ているし、客席へと入る場所には白いポールでゲートが取り付けられたり、天井からは小さな鈴が吊り下げられたりと、実に細かな部分にまで“演出”の熱が吹き込まれている。この作品世界をを描くために、舞台空間が徹底的に“奉仕”しているのだ。緻密な計算の上に成り立たされているというより、それは演出家自らの細胞を1つ取り出して、大きく拡大させて舞台セットにしたかのようでもある。

 この作品を徹底的な物質批判であると見る人もいるだろうし、理解不能な不条理劇だととらえる人もいるだろう。しかし、私はこの作品をこれまでに出会ったことのない“ファンタジー”だと言いたい。如何様にもとらえることの出来る作品世界は、上質な幻想だ。もちろん、舞台芸術は虚構を描くものであるし、すべてがファンタジーだと言えるだろうが、『豊満ブラウン管』はおそらくまだ誰も出会ったことのないファンタジーなのではないだろうか。難解な印象のある作品だが、1つ1つのセリフや物語の展開を説明する気弱さ、弁解するようなヤワな態度は役者からも演出からも見受けられない。彼らのホスピタリティはもっぱら作品を現出させるためだけに注がれているのだ。まだ見ぬ世界に、観客を招き入れるために。

 演出家の山口茜は、この作品を最後に今後約2年半の活動休止期間に入る。文化庁の新進芸術家海外留学制度研修員として、フィンランドにわたるためだ。未来の輝かしい活躍を待望するのはもちろんだが、今、この作品を見逃すことは大きな損失。演劇ファンのみならず、現代の闇に生きている私たちには必見の舞台であろう。ファンタジーによる、凝り固まった常識の浄化を経験するために。

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■文責:Arts&Theatre→Literacy 亀田恵子
2007年5月12日(金)愛知県芸術劇場小ホールにて鑑賞

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