【レビューメモ】人間は、いつの間に進化していたのだろう―右脳中島オーボラの本妻 vol.12『うまれたばかりのくに』―

第29回まつもと演劇祭 参加作品
公演日:2026年10月10日(土)・11日(日)
会場:Studio365
作・演出:丸蟲御膳末吉
出演:浅井あやね、平手さやか、大脇ぱんだ、古場ペンチ、加藤孝


人間は、いつの間に進化していたのだろう?
『うまれたばかりのくに』を観ながら、そんなことを考えた。もちろん、生物学的な進化という意味ではない。人間の想像力や、それを受け止め、表現する身体のあり方が、私の気づかないうちに変化していたのではないか、という驚きである。

本作は、とにかく要素が多い。物語の軸となるのは、主人公アカリが抱える、身近な人々の死に対する悲しみや後悔だ。親しかった近所の女性や、母親の再婚相手である父親。亡くなった人々への思いを、アカリは自分の身体の内側に取り込み、忘れずにいようとする。その構造に重ねられるのが、ウイルスの増殖過程である。冒頭に示されるウイルスの説明を聞きながら、少し構えてしまった。これはなかなか難しい作品なのではないか、と。

ところが舞台が始まると、そんな構えをよそに、イメージが次から次へと飛び出してくる。怪獣が現れて街を破壊する。登場人物が犬になる。家族のやりとりがあり、冗談が飛び交い、歌い、踊る。登場人物たち(ウェイルスたち?)がアカリの幼少期から現在へと時間を行き来しながら、場面は目まぐるしく変化していく。作家の頭の中には、いったいどれほどのイメージが詰まっているのだろう。科学的な知識、死者への思い、家族の記憶、怪獣、笑い、歌、身体の動き。それらを結びつける発想の豊かさに驚かされる。

しかし、私がさらに驚いたのは、それを舞台上で実現していく俳優たちだった。これほど多くの要素が盛り込まれた作品は、これまでにも観てきた。けれども、さまざまなイメージが散漫になり、詰め込まれた印象だけが残ることも少なくなかった。本作では、そうならない。たとえば、突然始まるギャグのようなやりとり。普通なら、面白かったか、そうでもなかったかと考えるところだが、その判断をする間もなく次の場面がやってくる。「ああ、今度はそっちへ行くのか」そんなふうに、次々と跳躍するイメージを追いかけること自体が楽しい。俳優たちは、異なる質感の台詞を発し、動き、歌い、場面を切り替えていく。その速度に身体が対応し、観客の意識を次のイメージへと運んでいく。

ここで思い出したのが、かつて観た矢内原美邦の演劇である。矢内原が手がけるミクニヤナイハラプロジェクトの作品では、言葉と身体の関係が独特の方法で追究されていた。超高速で発せられる台詞は、言葉そのものがダンスをするような劇空間を生み出す。

その舞台で私が感じたのは、俳優の身体が限界まで追い込まれていくような、強烈な緊迫感だった。次々と課される表現上の要求。演出家の描く世界を実現するために、俳優たちは身体の限界に挑む。そこには、課されたタスクを遂行すること自体が極限的な表現となるような、ぎりぎりの緊張があった。もちろん、それは単に俳優が苦しそうに見えるということではない。その緊迫感こそが、舞台の強度を生み出していたのだと思う。

一方、『うまれたばかりのくに』の俳優たちは、ずいぶん異なる身体のあり方を見せていた。次々と現れる異質なイメージを受け止めながら、場面から場面へと軽やかに跳躍していく。そこにも高度な演技的能力が求められるはずだが、その負荷を観客に感じさせない。出演者の一人に少し話を聞くと、演出家が細部まで厳密に指示するのではなく、俳優たち自身が場面について話し合い、それぞれの解釈を持ち寄りながらつくっていくのだという。

なるほど、と思った。演出家のイマジネーションを俳優たちが共有し、ある種のゆるやかな合意のもとに、それぞれの身体で表現を立ち上げていく。俳優の身体は、作家のイマジネーションを受け入れる器のようでもある。しかし、それは空っぽの器ではない。受け取ったものを自ら解釈し、ほかの俳優と関係を結びながら、次の表現へと変化していく身体なのだ。

ここで、もうひとつ別の記憶がよみがえった。以前、SCOT(鈴木忠志の演劇集団)の俳優たちに感じたのは、鍛え上げられた身体の強烈な存在感だった。舞台に立つ一人ひとりが、ある種の威厳や圧力を放っていたように思う。本作の俳優たちは、それともずいぶん異なる。

一人ひとりが圧倒的な存在感で舞台を支配するわけではない。ごく普通の人々のようにも見える。けれども、役柄を的確に表現しながら、次々と変化するイメージを受け止め、身体を変えていく。強烈な存在感によって観客を引きつける身体。限界を突破するような緊迫感によって表現を成立させる身体。そして、異なるイメージを共有し、軽やかに跳躍していく身体。

もちろん、これらは演劇の発展段階を示すものではないし、どれかが優れているという話でもない。それぞれ異なる演劇の方法であり、異なる身体の魅力なのだろう。それでも、今回の舞台を観ながら、私はふと思った。

こうした軽やかな身体は、いつから舞台に現れていたのだろう。情報があふれ、異なる価値観やイメージが絶えず交錯する現代。私たちは、他者の発想を受け取り、自分なりに解釈し、また別の誰かへと手渡すことに、以前より慣れてきているのかもしれない。それは単に、俳優の技術が変わったということなのだろうか。それとも、人間が他者とイマジネーションを共有し、協働するあり方そのものが、少しずつ変化しているのだろうか。

作品の終盤、舞台と客席の間に大量の段ボール箱が積み上げられ、壁がつくられる。観客から舞台は見えなくなる。その壁の向こうで、アカリは亡くなった人々と対話する。何もしてあげられなかったという後悔。忘れたくないという思い。死者たちを自分の内側にとどめようとするアカリに対して、彼らは生きていくことの大切さを伝えようとする。姿が見えないからこそ、そのやりとりは、アカリの心の内側で起きている激しい葛藤として迫ってくる。

正直に言えば、もう少し短くてもよかったのではないか、とも感じた。けれども、振り返ってみれば、それまで目まぐるしく跳躍し続けてきた作品が、ここで時間の速度を緩めたようにも思える。あえて観客の視界を閉ざし、時間をかけて内面の葛藤に向き合わせる。その長さにも、演出上の意図があったのかもしれない。やがて段ボールの壁が舞台側へと崩され、再びアカリたちの姿が現れる。閉ざされていた世界が開かれる。死者への思いを抱えながら、それでも生きていく。その選択が、舞台上の物理的な変化として立ち現れる印象的な場面だった。

さて、最初の問いに戻ろう。人間は、いつの間に進化していたのだろう?

もちろん、一つの作品を観ただけで、そんな大きなことが言えるはずもない。過去にも、異質な表現を自在に行き来する俳優たちは存在しただろう。それでも、かつて舞台上の身体に感じた強烈な存在感や緊迫感とは異なる、軽やかにイメージを受け止め、次へと移っていく身体に、私は何か時代の変化を感じた。もしかしたら、俳優たちの身体は、私が気づかないうちに変化していたのかもしれない。

いや、俳優たちだけではない。異なるイメージを受け取り、共有し、次々と別の世界へ移っていく。そんな人間のあり方そのものが、すでに変わり始めているのではないか。『うまれたばかりのくに』は、私が見過ごしていたかも知れない?その変化に、ふと気づかせてくれた舞台だった。


公演公式リンク:https://www.instagram.com/p/DeSm-TlDwgL/?utm_source=ig_web_copy_link&srtk=NTc4MTIwNjQ2YQ==

<参考>
★ヤナイハラミクニプロジェクトhttps://www.nibroll.com/myp/3nen2kumi.html 
★SCOT:https://www.scot-suzukicompany.com/

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