批評・取材

批評を始めたばかりの頃、ある演出家にこう言われた。
「知識もないのに、批評家を名乗るのはいかがなものか」と。

では、私は何者なのか? 何を行う者なのか?たどり着いたのは、
作品(現代アート・パフォーミングアーツ)の前に立ち、鑑賞者として、
それらの現象を目撃し、思考し、記録すること

Arts & Theatre → Literacy ――
この名称は、私の活動を示す旗印であり、信条そのものである。


💡最新レビュー

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📌 目次

  1. 2025.11.03 『Flamenconauta』第三の身体:小島章司が解くフラメンコのジェンダー を追加しました
  2. 2025.04.14『見えない青髭公の城』体現帝国|劇場は、剥製工場である。を追加しました

『Flamenconauta』|
第三の身体:小島章司が解くフラメンコのジェンダー

📍 会場:銀座ブロッサム中央会館
📅 上演日:2025年10月30日(木)
✒️執筆:Arts & Theatre → Literacy(2025年11月執筆)
  演目・出演
  PRELUDIO 前奏曲
   GRANAINA 踊り:カレン・ルーゴ/ギター:チエクロ
   LA CANA 踊り:山形志穂 鳥坂麗
   ALEGRIAS 踊り:小谷野宏司 Farolito 松田知也
   A PABLO NERUDA 朗誦・踊り:カレン・ルーゴ 小島章司
   ASTURIAS 作曲:イサーク・アルベニス/振付:井上圭子/踊り:松田知也
   TANGOS カンテ:ミゲル“エル・ラビ” ホアキン・ゴメス“エル・ドゥエンデ”
   VIDALITAS カレン・ルーゴ
   TONA Y SIGUIRIYA 踊り:小島章司

その踊りは、現実から半歩ずれた次元で起きているように見えた。小島章司が腕をすっと伸ばし、指先が空気の肌理(きめ)を撫でた瞬間、舞台の空気の密度がわずかに変わったように感じられた。そこには、力強く床を踏み鳴らすフラメンコの身体とは異なる、“別の法則で動く身体”が立ち上がっていた。

裾がスカートのような黒い衣装をまとい、そっと裾を持ち上げて脚を見せながらステップを刻む小島は、左右の歌い手から放たれる強いカンテを、決して直接的なエネルギーとして受け取ってはいなかった。声は踊り手を煽る刺激ではなく、彼の身体を通り抜ける素材となり、別の相へと変換されていく。声は一度その内部で沈静し、濾過され、光の粒子のような静かなエネルギーとなって再び舞台へ還元される。そこに見えていたのは、男性性の誇示としての強靭さでも、女性性としての優美さでもなく、声を変換し媒介する“第三の身体”であった。

その在り方には、男性性と女性性のどちらかを「選ばない」という拒否ではなく、両者の粒子を身体の内部で交わらせ続ける運動性があった。外側へエネルギーを解き放つカレン・ルーゴら若手ダンサーたちの身体性とは対照的に、小島の踊りは、声と身体が交感しながら内側へと旋回する。若手が観客に向けて身体を提示する“主張の踊り”だとすれば、小島の踊りは、声というエネルギーを媒介し、異なる次元の空気を舞台上に出現させる“現象の踊り”である。男性性/女性性という枠組みを背負って闘う必要がない身体が、そこに存在していた。

さらに印象的だったのは、朗誦の場面で白い衣装を纏った姿だ。長髪と髭を湛えた小島の容貌は、一見すると神官のような神々しさを帯びている。しかし、声を発した瞬間、その印象は静かに裏切られる。発せられた声は、意外なほど柔らかく、どこか女性性に寄った穏やかさを持っていた。白という“神性”を象徴する記号をまといながら、声はその権威を脱ぎ落とし、性の位相をずらすことで第三の存在を立ち上げていたのである。

小島章司の身体が示していたのは、男性性/女性性という属性のどちらにも回収されない“中性”ではない。むしろ、両者が混じり合い、行き来し、交差点のような身体が生成していたことだ。声を受け取り、変換し、別次元の質感へと昇華する媒介者としての踊り。その身体は、対立する概念を統合してしまうのではなく、境界線そのものを踊りの中で揺らし続ける創造性を帯びていた。

86歳の身体がそこに提示していたのは、老いでも、伝統の継承だけでもない。ジェンダーの差異さえ素材として練り込み、声の次元と身体の次元を媒介しながら踊る、未来の身体のあり方である。小島のフラメンコは、性差を越境することを目的としない。むしろ、男性性と女性性が触れ合う“生成の場”そのものを可視化していた。

🟦関連リンク:https://www.shojikojima.com/


『見えない青髭公の城』体現帝国|劇場は、剥製工場である。

📍 会場:体現帝国館(名古屋・内田橋商店街)
📅 上演期間:2025年4月〜6月 毎週土曜日19:30開演
✒️ 執筆:Arts & Theatre → Literacy(2025年4月執筆)

「完璧な人間を作ろうとして、108回も失敗した男がいる」。そんな噂から始まる物語は、グリム童話『青髭』の輪郭を借りながら、観客と演劇の関係性そのものへと鋭く切り込んでいく。劇場の外でいくつかの儀礼を通過した観客はようやく建物の中へと足を踏み入れるが、その先に現れるのは顔を隠され天井から吊られた紐に身体を預けて踊る少女だ。操られる者としての身体は神秘的でありながら痛ましく、それを照らす光は本作における「見る/見られる」の非対称な関係の始まりでもある。

 しかし物語は、そうした視点の固定をすぐに裏切る。次第に舞台と客席の境界は崩れ、観客が立っていた場がいつの間にか「劇に組み込まれた場」であることが明らかになっていく。用意されていないと思われた“観客のための安全域=座席”を観客自身が劇中で発見するくだりは、演劇における「観るという行為」が如何に不確かで流動的かを実感させる。
作品中盤、青髭が大宴会を繰り広げて出かけてしまった後、ひとり残されたユディットは夢を見る。やがて青髭とユディットの会話は卑猥なオブジェと化した「鍵」と、チープでケバケバしい装飾を施された「穴」との会話にすり替わり、戯画化された関係性のなかに突入する。演劇とは何かを問うかのように“開演”“濡れる”“挿入”といった言葉が次々に繰り出されるこの場面は性愛を媒介としながら、観客と舞台との関係そのもの —入る者と受け入れる者— を笑いと羞恥を通して露出していく。

 終盤、青髭とユディットが雨の音とともにむき出しの感情をぶつけ合う場面がある。具体的な内容は伏せたいが、演劇と現実、役と身体、物語と観客のすべてが濁流のようにせめぎ合う時間がそこにある。これは観る者の存在を前提としなければ立ち上がらない舞台だ。

 私は上演時間までの時間を内田橋商店街にある小さな食堂できしめんと天ぷらの盛り合せを賞味したが、昭和の雰囲気ただようその店のレジ横に本作のポスターがドンと貼ってあった。挑発的で刺激に満ちた作品を上演する体現帝国だが、活動は地域と観客に根ざしている。なるほど、後援には内田橋商店街とある。都市の片隅、普段は通り過ぎてしまう場所が“青髭公の城”となり、観客を迎え入れる試みはとても愉快であたたかい。手渡された灯りを手にしたあなた自身の一歩が、この“見えない城”に新たな時間を生み出していくだろう。
 
 公演は4月~6月の毎土曜日19時30分に開演する。場所は内田橋商店街・体現帝国館にて。

🟦 関連リンク:https://x.com/taigenteikoku/status/1911658100681318756?t=lVcN9qpsHZrLI57Kdp8nfw&s=19


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